さよなら、ファインマン

短編小説




ねえ、先生、何で海は青いの?

光が散乱して、色付けているからだよ。

空が青いのは?

 

「――それも同じ理論だよ。地球の大気は、沢山ある色の中から青色だけを捕まえて空へと送り出しているんだ。だから空は青いんだ」

 

そう言って、窓の外を眺めながら先生は軽く笑った。
おれも同じ様に、強い風に眉をしかめながら景色を眺める。次の質問を考えてぐるぐるしながら。

 

「それじゃあ、何で草は緑色なの?」
「それは……葉っぱが光合成して生きているからじゃないのか? 葉っぱのミトコンドリアが葉緑体だからだろう。それより、もう部活始まるぞ」

 

にわかに、おれの方を振り向いて終了の言葉を告げる。そのあとは決まってチャイムの音が鳴り響く。そしておれは悲しく笑いながら手を振って駆け出す。「先生、また明日」。

まだ胸がドキドキしてる。先生に構って欲しくて、ギリギリまで教室に残ってはタイムリミットまでおしゃべりをする。そんな日々が愛しくてたまらない。
始まりはほんの些細なことだった。

 

 

『先生、何で地球は丸いんですか?』

 

 

正直、おれは途方に暮れていた。中学三年になったというのに、勉強が嫌で嫌で仕方がなかったからだ。それよりかはサッカーをしている方が百倍も好きだった。でも、サッカー選手になりたいなんて思えるほど上手くはなく、受験のために苦痛を感じながらも勉強をすることしか選択肢はなかった。

そんな時、塾に行くのが嫌で、放課後、机に座りながらぼんやりとしていたところ、先生に話しかけられたのだ。「部活じゃないのか?」、と。

 

「今日は部活休んで塾に行かなきゃいけない日なんです」
「そうか、偉いな」
「偉くなんかない。行きたくねえもん」
「行きたくないのか」

 

「そうか」とつぶやきながら先生は窓の側に立っていた。
陽が反射して、光に透けて見えた。
何故か、先生の奥に見える水平な大地が歪んで見えて、おれは何気なく質問したんだ。

 

「先生、何で地球は丸いんですか?」

 

幼稚な質問だったが、それでも先生は少し考えて答えてくれた。

 

「世界に片隅を作らないためだよ」
「へ?」
「丸いと、世界は繋がるだろ。どこかしらと」
「そう……ですか?」

 

おれがどういう意味か分からず首を傾げていると、先生は悪戯っぽく微笑んだ。

 

「冗談。本当は……」

 

先生は宇宙の始まりから、地球が出来上がるまで説明してくれた。それに納得したおれは、次から次へと質問攻めにしていた。
何で空は赤く暮れるの? 電話から声が聞こえるの? 飛行機は落ちないの?
先生は物知りで、おれの質問には何でも答えてくれた。そして、放課後それが日課になっていた。質問の答えを知りたいと思うよりも、先生と二人きりで話をしていたいと思うようになったのはいつからだろう。そしてそれが、こんなに胸を締め付けることに気付いたのはいつからだったろう。

 

「先生は化学を教えてるけどな、この分野は自然科学っていうんだよ。中学ではまだ詳しく習わないから、杉山は高校に入ったら物理を取ればいいよ」
「嫌です。おれ、頭悪いもん」
「物理は難しくなんかないよ。今みたいな、杉山が疑問に思ったことをひとつひとつ解決していくだけだ。そうだ、これ貸してやるから読め」

 

先生は教卓に置いてあった物理の教科書をおれに貸してくれた。

『ファインマン物理学』と書いてある。ファインマンとは物理学者の名前らしい。

先生は、自由時間になると、たまにこの本を読んでいた気がする。内容は難しかったけど、この本は計算式ではなく理論で説明してあったので、数学のようにただ公式を暗記して答えを出すのとは違った。

 

「先生、なんだか、これならおれでもわかるかも」
「そうか。先生もな、色々なことを不思議に思っては調べたもんだ」
「先生にもまだ分からないことはあるんですか?」
「たくさんあるよ。たとえば、杉山がどうやったら勉強を好きになってくれるのかとか」
「なんだ、そんなこと」

 

おれ、勉強、苦痛じゃないよ。寧ろ好きかもしれない。その代わりに、先生のことも好きになったけれど。
窓枠にもたれて二人で並び、ぶつかる肘と肘がくすぐったい。おれはすぐ手を引っ込めて、離れたくないのに距離を取ってしまう。

 

「でもな、色んなことを調べすぎると、あまりにも夢がなくなってきてな」
「どういうこと?」
「理論を知ってしまうと、魔法とか幽霊とか、根拠のない不可思議なものが信じられなくなってしまうんだ」
「じゃあ先生、ハリー・ポッターとか見れないタイプですか」

 

おれがちゃかすと、先生は小学生みたいな顔で笑った。そして少し考え込んで、「ハリー・ポッターは確かに観たことないな」と、頷いた。
先生は、何でそんなに綺麗に笑うんだろう。眼鏡が細い鼻筋に乗って、品のある顔をますます上品に見せている。でも、気取ったところなんて全然なくて、寒いからと、お洒落な焦げ茶のスーツの上からチョークの粉がついた白衣をいつも羽織っている。

 

「面白いですよ。貸しましょうか」
「今度は俺が杉山に教えられる番だな」

 

先生は普段、自分のことを先生と呼ぶのに、先生が俺と言った瞬間、おれたちの壁がひとつ薄くなった気がした。そんなささやかなことが、泣きそうなほど嬉かった。

 

「先生、おれ、知りたいんです」

 

先生はいつものように、「何だ?」と質問を待ち構えていた。

 

「どうして、人は、愛するのでしょうか」
「んー、人間には遺伝子を決める染色体があって、全部で23対の計46本の染色体がある。要は、2つが対になって一本なんだ。そして、22番目までは男も女も一緒」

 

遺伝子? と不思議がりながらも、おれは軽くうなづく。

 

「23番目の染色体だけ男女独自の形を持っていて、男の持つ23組目の性染色体はXYと呼び、女の持つ性染色体をXXと呼ぶ。男のもつ染色体のYは、元はXから出来たと言われており、男性は本能的に女性のXを求めてしまうらしいんだ。そして、女性はそれを母性で受け止める」

「……違いますよ、先生」
「え?」
「おれは、貴方を愛しています。おれのXYは女性を求めていません。だから、不正解」

 

先生は眼鏡の奥の瞳に動揺を隠しながら、でも静かに口を開いた。おれを傷つけないように、それともおれが冗談を言っているかどうかを探るために。

 

「不正解じゃないよ。杉山は俺を愛してなんかないだろ」
「それは先生が決めることじゃない」

 

「おれは」と言いかけたとき、終わりを告げるチャイムが鳴った。そのチャイムが鳴り終わるまで、おれは先生のことをずっと見詰めてた。先生は気まずそうにその視線を避けていたが、やがて言った。

 

「杉山、部活の時間だ。行きなさい」

 

先生はそんなときでも精一杯に優しく笑った。

 

 

おれと先生の放課後の時間はなくなった。なぜなら、授業が終わるとおれがすぐに部活に直行するようになったからだ。まるで先生から逃げるように、駆け足で誰よりも早く教室を後にした。

あんなことを言ってしまった自分が憎かった。伝えたからってどうしたかったのだろう。そんなことも考えてなかったのに、何ておれは愚かだったのだろうと悔やむ日々が続いた。

先生のことは変わらず好きだ。でも、先生のことを目で追いかけるたび、あの気まずそうな表情が脳から離れない。迷惑だと思われた気がした。生徒から、しかも男から愛の告白をされるだなんて、迷惑以外の何者でもない。それとも、頭の弱い奴だと思われたかもしれない。おれが勉強ができないから可哀想に思われたかもしれない。そんな風に勝手な思いを抱えては、一人で落ち込んだ。

先生から借りた教科書は、まだおれの部屋にあった。いつも返さなければと思う。でも、返してしまったら、おれと先生との接点が本当に何もなくなってしまうのが怖かった。もう諦めたはずだったのに、手放せない想いが残っていた。この本を人質にして、どこまで抗うつもりなんだろう。何て浅ましいおれ。

卒業が近づき、おれは志望校に合格し、少しは先生にはなむけができることが嬉しかった。それでも、先生と二人きりで話す機会は極力避けていたし、先生もその事には触れてこなかった。凍てついた時間を溶かせずにいる、まるで緊迫した冷戦状態だった。

卒業式の前日、おれは皆が帰るまで机にひとり座っていた。先生は他の生徒に挨拶をして、黒板を綺麗にした際にまた白衣を汚してはらって、それが全部終わったときに声をかけてきた。

 

「杉山、部活じゃないのか?」

 

思いがけない言葉におれは一瞬固まって、それから大きく吹き出した。

 

「……もうとっくに引退しましたよ」
「そうか。お疲れさん」

 

先生は教卓にもたれておれを見ている。ちょうどクラスでど真ん中の席だから、他の生徒がいないとおれたちの視線は真直線にぶつかる。そんなおれの気まずさを消すように、先生は何気なさを装って話題を振る。

 

「明日、卒業式だな。体育館、寒いだろうな」
「卒業式くらいはその白衣、脱いだ方がいいですよ……」
「やっぱり杉山もそう思うか?」

 

卒業、という響きを目一杯明るくしようとしたけど、明日で最後なんだという想いは拭えなかった。明日で、先生と会えなくなってしまう。しんみりした空気がおれを襲う。その空気を引きずったまま勢いよく立ち上がった。

 

「先生、理論とかわかんないけど、おれ、確かに貴方のことが好きなんです」

 

泣きそうな声で叫んだら、本当に泣いてしまいそうだった。
そして、借りていた本を机から引っ張り出して、先生の前に突き出した。

 

「おれ、理論とか信じない。一生知らないままでいい。何で空が青いのかも、海が青いのかも、何で貴方のことを好きになってはいけないのかも、全部知らないままでいい。だからこの本は読んでいないんです。バカな生徒でごめんなさい。でも先生、おれのこと嫌いにならないで。好きになってとは言わないから、嫌いにだけはならないでください」
「……嫌いになんか、ならないよ。杉山は俺の生徒だもの」

 

先生はおれの元へゆっくりと歩み寄ると、おれの震える手から本を取った。パラパラと懐かしそうにページをめくり、目を細める。

 

「杉山は本当、昔の俺にそっくりだ」
「えっ、おれが?」
「青い絵の具は空や海からできてると思ってたし、電球は月の欠片からできてると思ってた。だから俺もね、杉山のように色んなことを尋ねたことがあったんだよ」

 

そう言って、先生はおれの机に本を置いた。

 

「これは読まなくていいから、持っていなさい。俺からのプレゼントだ」
「え? だってこれ、先生の大切なものなんでしょ?」
「俺はな、理論に負けてしまったんだよ。だからもう必要ない」
「? どういう、意味ですか……?」

 

そう、不思議そうに問いかけると、先生はおれの頭を撫でてくれた。
その感触が本当に心地よくて、先生はおれのことを嫌いになっていないということが伝わってきた。

 

「杉山はそのままでいいんだよ。高校に行っても頑張りなさい」
「先生、また会いに来てもいいですか?」

 

先生は頷いて、あの時のように優しく笑った。
明日は卒業式。きっとおれは先生への想いで胸を一杯にしながら泣くだろう。
だから今は、おれも笑顔で微笑み返す。

 

【完】

 

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