くまの熊野・1

くまの熊野

くまの熊野・1

くまの熊野・1

 

 『運が悪かった』、それだけじゃ片付けられないこともある。だって失ったものは戻ってこないのだから。

 熊野純平はサッカー部の後輩だった。

 

「せんぱーい、足痛めたー! 痛いよー!」

「じっとしてろ。今、スプレーすっから」

 

 高校時代、何が良かったのか、別段愛想も面倒見も良くない俺に懐いてくれていた。まあ、弱小サッカー部だったのでそんなマジにやってたってわけではなかったから、先輩も後輩もほのぼのと仲が良かったのだけど。先輩の代が引退するときは俺が泣いたし、俺たちが引退するときは熊野たちが泣いた。

 また、いつでも遊びに来てくださいね、受験勉強の息抜きにでもいいですから、いつでも歓迎ですから。

 卒業するときも泣いていた。大学に行っても遊びに来てくださいね、試合見に来てくださいね、忙しいとは思いますけど……。

 そう言われたはいいが、大学に入ってからは他の部員との予定が合わずなかなか高校に行くことができなかった。せめて夏の大会はと四ヵ月ぶりに観に行ったのが最後。熊野達は一回戦で敗退したので、それ以上試合を見ることはできなかった。そのときに複雑そうな顔で、「おれ、せんぱいと同じ大学に行ければいいなーって思ってるんです」と熊野に言われた。複雑そうだったのは涙をこらえていたからだろう。いじらしく、弟みたいに可愛かった熊野。俺が頭を撫でたら、一気に涙腺が崩壊してしまった熊野。俺が覚えているのは、そのときの涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔だ。

 そして、俺と同じ大学に合格したと嬉しそうに電話ごしに言われ、約半年振りに会うことになった、三月のある寒い日のことだ。

 

「せんぱーい! わー久しぶりですー。髪、伸びました?」

「そうか? 熊野は髪染めたんだな」

「夏で引退してからっすよー。せんぱい、相変わらずかっこいーっすねー! やっぱ憧れますっ」

「はは、お前の言うことは変わらないな」

 

 半年振りに会った熊野は、いつもの制服姿やユニフォーム姿ではなく、色あせたジーンズに白いダウンを合わせて髪の毛も茶色く染めていたけれど、その笑顔は昔と変わらず、俺が可愛がっていた後輩のものだった。眩しいものでも見るように目を細めて笑うその顔が好きだったことを思い出し、懐かしさと愛しさが胸にこみ上げてくる。

 

「せんぱいと同じ学部には入れなかったんです。おれ、バカだから。でも、これでもすげー勉強したんすよー。引退間近はヘディングも控えてさあ」

「お前、最後のあそこで飛び込まなかったのそれが理由だったのか」

「あ、ばれちゃいましたー? 皆には内緒ですよっ」

 

 その日は昼から雪が降っていた。俺のバイトが終わったあとに待ち合わせて、合格祝いも兼ねて夕飯でも一緒に食べよう、ということになっていた。

 

「熊野、何食べたい? 何でもいいぞ」

「え、まさか、せんぱいがおごってくれちゃったりするんですかっ?」

「こういうのは、そういうもんだろ。あ、でもあんま高いもんは無理だぞ。家賃が払えなくなっちまう」

「え? 先輩、一人暮らしなんですか? まさか同棲……?」

「残念ながらさみしい一人暮らしだよ。すまんな、夢がなくて。あ、なに笑ってんだ」

 

 彼女とはクリスマスのあと別れた。もともと告白されたから付き合っただけだし、顔は可愛かったけど、わがままで一緒にいて疲れることが多かったのだ。そんな態度が伝わったのか、あっちから別れを切り出され、「顔はいいけど、性格悪い」と言われてしまった。どっちがだ、と言いたかったが疲れたくはなかったので反論は止めておいた。

 

「あ、じゃあ、先輩の家、行ってもいいですか? おれ料理できますし、その方が安上がりでしょー? ね、ね!」

 

 別にいいよ、と言ったらものすごく嬉しそうな顔をした。先輩やさしいー、惚れちゃいそう、じゃあ近くのコンビニで酒買って、ツタヤでDVD借りていきましょうね。あ、晩飯なに作りましょうか? おれね、意外と料理作るのうまいんすよ。先輩何か食べたいものある……?

 そんなこと話しながら電車に乗って最寄駅に着いて、スーパーで晩飯の買い物が済んだときにはもう二十時になっていた。この時間帯、ここの道は歩道はあるが狭い上に交通量が多い。おまけに雪も降っているし、おっちょこちょいの熊野が足をすべらせたときのことも考えて、何気なく車道側へ場所を変わった。

 

「おら熊野、右歩け」

「えーなんで?」

「俺は左派なの」

 

 三月のとても寒い日で、道路には雪が積もっていて、それでも雪は止むことはなく一層強くなっていた。当然温かいものが食べたかったので、熊野に鍋をリクエストしたら、「切ってつっこむだけじゃないすかー」と残念そうにしたあと、「じゃあ別の日はもっと凝ったもの作りますね」と笑っていた。

 

「凝ったものってどんなもんだ?」

「えー、トムヤムクンとか?」

「美味そうだな。熊野が料理作れるなんて知らなかったよ」

「おれ、結構手先器用ですからねー。部活引退したあとキッチンでバイトしてたしー」

「意外だな。じゃあさ、一番得意な料理は……」

「先輩! 危ないっ!」

 

 そこで会話は途切れた

 

 

 熊野の一番得意な料理はなんなんだろう。尋ねたはずなのに答えが返ってこないのは何でだろう。俺はずっと待っているのに。

 まぶたの上が明るい。俺は昼寝でもしていたんだっけ。なぜか薬品の匂いがする。ここはどこなんだろうと目を開けると、母さんと姉さんが顔を覗き込んでいた。泣きそうな顔をしている。一体何が起こったんだろう。

 

「太一!」

「大丈夫っ? どこも痛くない?」

「何があった? おれ、これから鍋を……」

「覚えてないの?」

 

 あの日、会話をしながら歩いていて、そうしたら熊野の叫び声が聞こえて、そのあと……。

 

「あの雪の日、スリップした車が歩道に乗り上がって、あなたたちを跳ねたのよ」

 

 そうだ。大きなブレーキの音が響いて、強い衝撃を感じて……あなた、たち……。

 

「くま、の……熊野……そうだ、あいつはどうなった? どこにいる?」

「……」

「まさか、そんなにひどいケガなのか?」

「……」

「あいつ、痛いの弱いんだよ。大丈夫かな、泣いてないかな。病室近かったら今からでも会えないかな」

「……熊野くんは亡くなったわ」

 

 信じられなかった。

 何であいつだけが死ななければいけなかったのか。

 でも、その理由はすぐにわかった。

 

「熊野くんは、太一を庇うようにして倒れていたんですって……救急車が着いたときにはもう……」

「なん、だって……」

 

 せんぱい

 せんぱい

 せんぱい

 

 熊野の声がリピートする。

 死んだ? あいつが? さっきまで隣で笑ってたあいつが?

 春から俺と同じ大学に通えるってすげえ嬉しそうにしていたのに。俺も嬉しかったのに。あいつがまた高校のときみたいに隣にいてくれることが楽しみだったのに。

 俺の家じゃなく近くの居酒屋にすればよかった。俺が金ないとか言わなきゃよかった。バイトなんか入ってなきゃよかった。別の日にすればよかった。合格祝いなんてしなきゃよかった。あいつが落ちればよかった。俺と同じ大学なんて志望しなきゃよかったんだ。

 そうしたら、あいつはまだ生きていた。俺が殺したんだ。

 神様、もし願いが叶うなら、あいつを、熊野をもう一度この世に――。

 

 

 自分の部屋に戻ってきてからはフローリングの床に何時間もうなだれて座っていた。

 キズの具合は軽傷だったのですぐに退院できた。しかし、生きるのがつらい。悪いのは雪道でもドライバーでもない、全て俺が招いた結果だったんだ。会話なんかしてないで、あのとき少しでも後ろ向いて気付いていればよかった。熊野の得意料理なんか聞いたってあとの祭りだ。作れる張本人は死んでしまったのだから。

 

「そんなに落ち込まないで、せんぱい」

 

 幻聴がする。しかも熊野の声だ。

 誰もいるはずないのに無我夢中で辺りを見回す。とうとう俺はノイローゼになってしまったのか、空耳なんて。

 

「せんぱい、ここだよ」

 

 聞こえる、確かに聞こえるぞ。

 もしかしたら神に祈りが通じたのだろうか? だったら幽霊かもしれない。そんなの何だっていい。もう一度熊野と会話ができるならゾンビでもミイラでも構わない。

 

「熊野! 本当にお前なのか!?」

「そうだよ、せんぱい。下見て、下」

「下?」

 

 視線を下に向けるけれど、そこには何の変哲もないくまのぬいぐるみが転がっているだけだった。俺、こんなところにぬいぐるみ置いたっけな、と首をひねる。もしかしたら地震でも起きて、棚の上から落ちてしまったのかもしれない。元の場所へ戻そうと、むんずと持ち上げた瞬間……。

 

 

「せんぱい、おれだよ! 熊野だよ!」

 

 

 動いてしゃべった!

 

 

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