無常の花・10
【第二章 鏡花水月 ~惑う花~ 第三話】
その後、おれと貴洋は大学から一週間の停学処分をくらった。
貴洋は「ケガしてるし丁度いいや」なんてのんきに笑っていたけれど、おれはそんな風に笑う気持ちにはなれなかった。そんなおれを見て、貴洋も笑うのをやめた。
「貴洋、巻き込んでしまって本当ごめん……」
「まあ、優樹にケガがなくて良かったよ」
一躍有名人になってしまったおれたちは、校長室から外へ移動するあいだ、ずっと後ろ指を指されていた。貴洋は歯が痛いというのでそのまま病院へ直行して、おれは家に戻った。
「優樹、警備員さんたちに迷惑をかけたってどういうこと?」
学校からすでに停学の連絡を聞いていた母さんは事情を知りたがった。無理もない。今の今まで、学校で問題を起こすことがなかったから、一体何があったのかと不思議だったんだろう。
しかしおれは説明に困って、「悪ふざけがすぎたんだ」と言葉をぼやかす。暗い顔のおれに、母さんはそれ以上問い詰めることなく、「夕飯は何がいいかしら」と尋ねてきた。
「食べたくない……」
「優樹、誰にだって間違いはあるわよ。それさえ分かれば元気出して。ほら、お父さんももうすぐ帰ってくるわよ」
「うん……」
「じゃあ、優樹の好きなカレーにするね」
少しして、父さんが帰ってきた。しかし、「停学」の言葉に驚くことはあっても叱られはしなかった。
「優樹は男なんだし、少しぐらいやんちゃな方が父さん嬉しいぞ。昔は体が弱くてなー」
「そうそう。すぐ熱とか出しちゃってねえー」
この話題からおれの昔話へと話が変わってしまった。
自分のせいで歯を折って、ナイフで刺された友達がいるなんて聞いたら、そんな言葉も撤回されるんだろう。おれは何よりも、この優しい両親を悲しませることだけはしたくなかった。
「まあ、優樹。明日は城ヶ崎だ。気分も晴れやかになるだろ」
「うん……」
次の日、父さんと約束していた通り城ヶ崎に来た。季節は秋なので、早朝は少し冷え込む。父さんと二人、岩場に腰掛け穏やかな海を眺めた。
「伊豆はいいだろう。東京の海と全然色が違う」
「うん。空気も水も透き通ってる感じするね」
孝太と見た海は、曇り空の下、どよんと影を落としているようだったけど、ここの海は朝日も相まってすごく煌めいている。
父さんは早速釣りを開始し、おれはそれを隣で見守っていた。何か釣るたびに名前を教えてもらうけど、何がなんだか分からない。でも、父さんが楽しそうに説明してくれるのはうれしかった。だからおれも興味のあるふりをして、うんうんと相槌をうつ。
海を見ながらまた、貴洋と孝太のケガの具合を思った。貴洋は後で電話をかけてみよう。それに貴洋の親は怖いって聞いたことがあるし、怒られたりしてなければいいな。孝太の方は……。
ふっと想いがよぎった。
おれの記憶が確かなら、親戚の家で暮らしてたって言ってた。孝太には心配してくれる人がいるんだろうか。あの先輩ヤクザはケガしても殴るくらい最低のやつだし。また、あの何もない病室で痛みに耐えながら過ごしているんじゃないだろうか。
「ん? 優樹、どうした?」
「え……」
一人で生きていきたかったと、あのとき言われた覚えがある。一緒に生きていきたいと思える誰かはいなかったんだろうか。だから強くならなければいけなかったんだろうか。
「おれ、父さんたちがいて、幸せなんだな……」
「はは、おかしなやつだなあ」
父さんは笑い、「優樹、そこの網取ってくれ」と、大きな魚をまた釣り上げた。
釣りから帰るなり、おれは走った。
走って特急電車に乗り込み渋谷で降りた。騒がしい人ごみを、秋だというのに汗ばむくらいの気候の中駆け抜ける。
「すいませんっ」
息を切らして激しくノックすると、「静かにしやがれ」と、あの医者がのっそり扉を開けた。
「また坊ちゃんか」
「孝太は?」
「……鎮痛剤を打ってやったから寝てるよ。腹、三十針縫う大ケガだ」
静かに病室へ入ると、他の患者はもういなくなっていた。建物の陰になっているせいであまり陽が射しこまない部屋は薄暗く、前と同じ窓側のベッドに孝太は寝ていた。
もしかしたら、まだ退院していないのに外へ抜け出してたのかもしれない。左手には包帯が巻かれていたし、足もギプスをしていた。
満身創痍の孝太を見ていたら、おれまで痛くなってくる。それでも、今の孝太の寝顔は穏やかだ。
「この花瓶、借りていいですか?」
「いいよ。お、彼岸花か。坊ちゃん、それ毒あるんだぜ」
「でも、とても綺麗だったから摘んできたんです」
城ヶ崎で赤く咲き乱れる彼岸花を、毒に気をつけて摘んできた。真っ赤に燃える花弁は、この質素な病室に似合うだろうと思ったからだ。
「うん。孝太、嬉しいだろうな」
「そうだといいけど……」
「花より、お前さんの気持ちにだよ。いつまでも枯れたままの花なんて挿してたら、治るもんも治らんもんな」
「そうですね……」
安らかに呼吸をしている孝太の寝顔を見つめ、おれは花瓶の下に携帯の番号を書き置いて病室を出ていった。