無常の花・12

無常の花

無常の花・12

【第二章 鏡花水月 ~惑う花~ 第五話】

 

ガラリ

 

一拍置いて、脱衣所に人が入ってきた。
音に反射して、おれたちは弾けたように離れる。そこに漂う異様な雰囲気に、おじいさんたちが「?」という表情を向けた。
貴洋はおれの前で素早く浴衣を羽織ると、よろよろと去っていったが、一人残されたおれは、さっきの言葉の意味を考えながらお湯へ浸かった。

危うい均衡がガラガラと崩れてゆく気がした。おれ次第で貴洋次第で、簡単に壊れてゆくこのバランス。一体、部屋でどんな顔して会えばいいんだろう。
そればっかり考えていたら時間を忘れてのぼせるまで浸かり、やっと部屋に戻ると、夕飯の支度をしに来た旅館の人が「お帰りなさいませ」と迎えてくれた。

 

「あらあ、お顔が真っ赤。良いお湯でしたか?」
「はい……。少し長く居すぎたみたいで」
「タコみてえ」

 

ぼーっとした頭で貴洋の方を見てみると、いつものひょうひょうとした表情が伺えた。何もなかったみたいに、普段通りの貴洋に見える。
良かった。おれだって何もなかったことにしたかったので、「タコとは何だよ」と、いつも通りに振舞ってみた。だって、おれは貴洋を失いたくないんだ。
旅館の人がひと通りお皿を並べ終え、一旦下がった。おれたちは差し向かいに食事をする。

 

「この刺身、美味いな」
「おう」
「これあげる」
「おう」

 

……会話が続かない。何を言ってもうわの空だ。貴洋は今何を考えているんだろう。普段通りだと思ったのは間違いで、テレビの音だけが虚しく響く。
おれがしゅんとして黙っていると、今度は貴洋の方から話しかけてくれた。

 

「優樹……」
「ん?」
「浴衣、似合うな」

 

蟹の味噌汁を吹き出しそうになった。

 

「……それはどうも」
「すげえ似合ってる。てか、やばい」

 

熱い。汗がじんわり滲んでくるのを感じる。冷めた身体が、また火照ってきたようだ。
テーブルに手を付いて、頭を抱え込んでいる貴洋。何がやばいのかさっぱり分からない。でも、あまり聞きたくはない。

 

「えーと、貴洋も似合ってるけど」
「マジで? かっけえ?」
「う、うん」

 

苦し紛れに続けた会話だったが、それはあながちウソではなかった。
白地に濃紺の笹模様と旅館の名前がプリントされた浴衣は、精悍な顔立ちをしている貴洋によく似合っている。それに、Tシャツを着ているところしか見たことがなかったので新鮮でもあった。おれも多分一緒だろうけど。

気を良くした貴洋は「マジか」と携帯の黒い画面で顔の傷の具合をチェックした。さらに、いつも立てている前髪が下ろされているのに気付き、手ぐしでかき上げた。でも、下ろしてる方が優しげに見える気がする。
ビールの瓶が空になったので、さっき貴洋が頼んだ日本酒がやってきた。貴洋はその徳利をじいっと見つめ、また、お猪口も交互に見つめた。

 

「飲まないのか?」
「うーん、手酌じゃちょっと」
「……注いでやろうか」
「お願いします」

 

スッとお猪口を差し出した手がプルプルと震えている。何で震えているんだろう。おれが注ぎ終わると、ぐいっと飲み干し叫んだ。

 

「優樹、俺っ」
「はーい、失礼いたしますー。お待たせしました、海老真薯しんじょでございます。こちらは……」
「わ、わーい。美味しそうですね」

 

焦った。
その後、おれが注ぐのを拒むと、貴洋は悲しげに「注いでくれ」と、料理を持ってくるおばさんにお願いしていた。しまいにはお銚子から飲む始末だ。そして、箸が転がっても面白くなるくらい酔っぱらってしまった。

どうしよう、さっきみたく酔っぱらった勢いで告白とかされたら。
でも、貴洋は酔っぱらうと寝てしまう癖があることを思い出した。案の定、目の焦点が合っていない。

食事も済んだので、そのままおばさんと布団を敷いた。まだ九時だけど、貴洋をそこに寝かせて、おれは大きなため息をついた。
くうくうと寝息を立てる貴洋を横目に、見たくもないテレビを何となく見ていたところで、携帯の着信が鳴る。

 

――孝太

 

登録していない番号からの電話は見覚えのある数字の羅列。多分孝太からだ。どうしようか、と出るのをためらった。
でも、具合は大丈夫なんだろうか。そもそも、おれが番号置いていったんじゃん。

決心して部屋から出たら、エレベーターのボタンを押した。そのあいだも鳴り続ける携帯。留守設定がされていなかったのか、延々と鳴り続いてゆく。それは、まるで孝太の叫びのようで、切迫感がおれの胸を襲った。

一階に着くと外へ走り出し暗闇の中で通話ボタンを押すと、渓流にかき消されそうなか細い声が聞こえた。

 

「優樹……」

 

轟々と流れゆく河の音は、誰かの心の音のよう。
風に揺れたひとひらの想いは、お前に届いたんだろうか。

 

 

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