無常の花・14

無常の花

無常の花・14

【第二章 鏡花水月 ~惑う花~ 第七話】

 

旅館の人に応急処置はしてもらったが、鏡の欠片が残っているのでと、明日は近くの病院に行くようにと言われた。
貴洋はその晩、どこで過ごしたのか部屋には戻って来なかった。
おれは窓のそばの椅子に座り、一晩中貴洋の帰りを待っていた。
灰皿に残された燻った煙草の匂いが鼻をつんと刺激した。

陽が昇り始めたので、貴洋を探しに外へ出る。朝霧の中は、浴衣一枚だとひんやりとした。
昨日と変わらず流れる渓流の近くまで行き、傷ついた手を浸し顔を洗うと、傷口が裂けていく感覚が広がる。
その痛みに少しうずくまると、一人で痛みに耐えることがどんなに切ないことかを知った。

しばらく近くを探しても見つからなかったので、体が冷えてきたのをきっかけに部屋へと戻る。

貴洋が戻ってきたのはチェックアウト間近だった。おれたちは何も言えず、視線だけで会話を交わした。
チェックアウトの際、旅館の人に鏡を割ってしまった謝罪をして弁償を申し出た。
しかし、おれたちの憔悴しきった様子を見て気の毒に思ったのか、「お大事にして下さい」と言って温かく見送ってくれた。

貴洋は無言で車に乗り込み「もう帰って、病院に行こう」と言うと、ほとんど口を利かずハンドルを握った。

 

 

「貴洋、戻ったら一緒に病院に行ってくれるか?」

 

 

神奈川から東京に入るインターチェンジで、おれは口を開いた。
貴洋はしばらく無言でいたが、「いいよ」とつぶやいた。
高速を抜けると、すぐ渋谷へと向かった。
渋谷のパーキングに止めてもらい、貴洋に「どこの病院行く気?」と聞かれても黙って人ごみをかき分けて道玄坂を登り、さびれた雑居ビルへと案内する。

 

 

「何ここ。怪しい」
「すいませーん」

 

 

不審がる貴洋に構わずノックする。
またあの大きなおじさんが不機嫌そうに出て来た。

 

 

「また坊ちゃんか。困るんだよ、そう何度も出入りされちゃ」
「うわ、何だこのクマみてえな野郎は」
「貴洋っ」

 

 

おじさんは貴洋をにらんだ。貴洋も負けじとにらみ返す。

 

 

「ここで孝太は療養してるんだよ」
「あいつが? どんなつもりで連れて来たんだよ。俺帰るぞ」
「待って、貴洋」
「おっと坊ちゃん、孝太をあんま刺激しないようにしてくれな。傷口が開いちまう。それに、また殴られてたし……さすがに俺も止めに入ったけどな」
「本当ですか?」

 

 

慌てて中に入ると、花を見つめている孝太の姿があった。気配に気付きこちらを振り返った孝太は眼帯をしていた。

 

 

「優樹」

 

 

嬉しそうな顔をしたが、後ろの貴洋を見て途端に顔色を変える。

 

 

「何しに来やがった……」
「お前、声どうしたんだよ。顔も、俺そんな殴った覚えねえぞ。殴られた記憶ならあるけどな」
「孝太は本当は重症だったんだ。でも、貴洋のために隠してたんだよな? そうだよな、孝太」
「何でそんなことになってんの……」
「え、重症ってどういうことだよ」

 

 

みんな混乱していた。
まずい。このことを伝えたら仲良くしてくれるかと思ったのに。それより孝太の傷だ。

 

 

「顔、またあいつに殴られたのか?」
「うん、でも平気。慣れてるから」
「顔より腹だ。俺がやったとこか? やっぱり深かったんだな?」
「当たりめーだ。死ぬかと思ったぞ。死んだらお前、殺人犯だぞ、ブタ箱行きだぞ? そうなったら、みんなみんな離れていくんだ。分かってんのか、ガキが」

 

 

孝太がひゅうひゅうした声でまくし立てる。

 

 

『みんなみんな離れていくんだぞ』

 

 

その部分が苦しそうに聞こえて、貴洋をにらむ孝太の横顔を見つめた。貴洋がすまなそうに押し黙ったところで、おじさんが「はいはい、そこまで。大人しくしないんなら出ていってもらうっていったよな」とおれたちを追い出す。
孝太は身を乗り出して「またな」と叫んで、おれたちを送りだした。
出て行くときに、彼岸花が枯れていないか確認した。孝太の隣で、まだ花は綺麗に咲いている。

その帰り道、貴洋は「優樹はあいつが好きなんだな」と抑揚のない声でつぶやいた。

 

 

「好きじゃないよ。だって、そんなのおかしいじゃん……」

 

 

よく分からない。好きになるって、よく分からないんだ。
今まで付き合ってきた女の子に対する感情は、可愛いとか、相手がしたいことをさせてあげようとか、そんな漠然とした気持ちだった。そして、いつもそのままふわふわと流れて終わる。付き合ってるときは楽しかったんだろうけど、今ではぼんやりとしか思い出せない。

 

 

「優樹、怒るようになった」
「え?」
「お前が、感情むき出しで怒るとこ、初めて見たんだ。いつもあいつのことになるとムキになるし、庇ってる」
「考えすぎだよ。おれだって嫌なことがあれば怒るし、可哀想だって思えばそんな態度にもなる」
「……でも、俺の前では一度もそんなとこ見せなかったじゃねえか」
「それは、いつも貴洋が嫌なことから守ってくれていたからだろ……」

 

 

貴洋は少し間を置いて、複雑そうな顔で口を開いた。

 

 

「お前は、あいつを、守りたいと思ってるんだよ」

 

 

風が舞う。
人気のない路地裏を、すうっと通り抜けてゆく。
薄汚れた空気の中、浄化するような金木犀の香りが流れた。

 

 

「そんなこと……」
「前までは守ってやらなきゃとか思ってたけど、今は違う。お前は強くなった気がする」

 

 

貴洋は立ち止まり後ろを向いていた。
おれは気付かずに二、三歩進んだところで止まった。

 

 

「……悔しい。何でそうさせたのが俺じゃないんだって。それに、あの晩からずっと考えてた。お前を好きになるの、もうやめようって。でも、今だってこんなに好きなのにそんなこと出来ない」

 

 

プライドが高い貴洋は、人には絶対弱みを見せない。ましてや、涙なんて見せることはない。
だから、後ろを向いたその顔はどんな表情をしていたかなんて想像したくはなかった。
その背中もまた、おれの胸をぎゅうぎゅうと締め付けていたけど、やっと、「ずっと友達だよ」と、絞り出すことしか出来なかったんだ。

ただ、これだけは言える。おれは孝太に幸せになってもらいたいんだ。
おれに向ける笑顔があまりにも綺麗だから。

 

 

【第二章・完】

 

 

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