無常の花・19
【第三章 落花流水 ~堕ちる花~ 第五話】
夕闇の中、孝太の唇をなぞる。かさついた感触。
うっすら目を開けて、見下ろす角度でおれを見つめるまなざしがあった。おれの前髪を手ですいて、顔が見えるようにかき分けた。髪にキスを落としてくる。
「優樹の髪、ふわふわでいい匂いする……」
「シャンプーかな」
孝太の指がおれの乱れた髪を弄んだ。
「おれも孝太の匂い、好き」
「まじで……? どんなにおいすんの」
「なんか、香ばしい匂い……」
「はは、食いもんかよ。でも、優樹になら食べられてもいい。むしろお願いするね」
「ばか……」
「ふふ。それよか……」
ニヤリ、と孝太は悪戯に笑った。
何かを思い出すかのように、含み笑いをしながら見つめられた。
嫌な予感だ。
「優樹、すごかった」
おれは顔が熱くなっていくのを感じた。
「な、なにが」
「なにがって、セックス。もう最高」
孝太がおれの胸に手を伸ばしたので引っぱたいた。怒って背中を向けると、後ろから抱きしめてくる。
「今度そういうこと言ったら、ぶっとばす」
「うそ、ごめん」
「ちょ、変なとこさわんなっ」
「さっきまでここさわられて喜んでたのに」
孝太の頬をベシリと叩き、そそくさと服を着た。
裸の孝太がおれの服をひっぱる。
「着ちゃやだ。もっかい脱がす」
「やーめーろってば」
気がつけば、孝太の腹のキズが開いていて、じわりと滲む赤い血が下腹部を濡らしていた。
孝太はそれに気付いて手で拭う。
「大丈夫? 孝太……」
「大丈夫」
「ほんとに大丈夫?」
「ほんとに大丈夫」
「痛いときは痛いって言っていいんだよ」
「……じゃあ、痛い」
孝太は、痛みに慣れているだけで、痛みを感じないわけじゃない。おれと同じように、皆と同じように痛いんだ。けれど、それを必死に声も漏らさず耐えてるんだ。笑顔で笑い飛ばして、辛くないふりをしているんだ。
だって、「大丈夫?」って言ってくれる人がそばにいないと。一人はつらいよ。
「お前の優しさは、オレを弱くすんの……。もう、お前がいないと一人で生きていける気がしないんだけど。責任とって」
「……いいよ」
「ずっと一緒にいてほしい」
「じいちゃんになるまで?」
「うん、その先も。死んだあとも、ずっとずっと……」
*
夜、自宅に戻ると電話が鳴った。孝太からだ。おれは夕方のことを思い返しては、恥ずかしさに落ち込んでいた。電話に出るのも一苦労だ。
「も、もしもし」
「優樹、身体は平気か」
あまり聞かれたくないことを聞かれ、すぐに口ごもる。
「平気……」
「本当か? ちっとやりすぎちゃったから痛かったんじゃないかって」
「孝太、大丈夫だから、おれのことは気にしないでくれっ」
まだこの身体には、孝太の熱や感触が残っている。意外にたくましい胸板だとか、分厚い筋肉だとか、ばねのように、鞭のようにしなやかな身体。それと同時に幾つもの傷が皮膚を彩り、撫でると時々かさぶたでざらざらしたのを覚えている。
体液で体中しっとりと濡れて、触れ合わせるとそこだけひんやりとした。でも、おれの中に放ったものはマグマのように沸騰していた。一瞬、内臓が焼きただれるかと思った。
「お前の白い肌が、みるみるうちに赤くなっていくの見て、オレ夢中だったんだ。そんで、つい」
「そのことは、もういいよ」
だからって中に出していいとは言ってないけど。まあ、そんな言い合いも、なんだかすごく愛しいからいいんだ。だって、あの腕の中は思ったよりもとても温かくて安心したから。
本当はずっと抱き合っていたかった。離れたくなんかなかった。孝太から「そろそろ戻らなきゃ」って聞いたとき、笑顔なんて見せなきゃよかった。
なあ、こんな女々しいこと言っても、どうか笑わないでほしい。