無敵の存在

短編小説




秋山みひろはアホだ。もう、アホ、バカ、救いようもないほどバカ。テストはいつも0点だし、ノートなんか真っ白だ。

 

「アホだからついてくんなよ」
「なんでー? ほら、一緒にかえろ、しんちゃんっ」
「そう呼ぶな」

 

当然、アホなので皆から引かれている。しかし、それも分かっていないほどアホだから、自分が疎まれているなんて夢にも思っていない。一人でぽつんといても、いつも楽しそうだ。そして誰かに話しかけてうざがられて、一人になってまた話しかけて、その繰り返し。

俺は、そんな秋山が好きで好きでたまんなくて、でもそんなこと言うとみんなからハブられるから、あいつに話しかけられても無視して、たまに唾吐きかけたりする。可愛い可愛いとにやける表情を抑えて、秋山に蹴りを入れたりする。

 

「ねえ、しんちゃん! 何で冬って寒いんだろうねー」
「んなことも知らねえのかバカ。とっとと掃き溜めにおっこって死んじまえ」
「掃き溜めってなーに?」
「死ねバカ、うんこ」
「あははーしんちゃん面白ーい!」

 

盗み見ると、さっきのケンカで学生服とシャツの襟のボタンがほつれている。頬には殴られた跡が残っている。唇が切れて血が滲んでいる。すらっと伸びた白い首に、絞められた跡も残っている。寒そうな薄い鎖骨が見えても、秋山はけろっとした表情で「うんこ、うんこ」と笑いながら白い息を吐き続けていた。

 

「お前は、寒くねえのか」
「んー? なんで?」
「都築たち、てめえのボタン引きちぎっただろ。風強いし前締めないと寒いだろ。んなこともわかんねえほどバカなのか」
「ううん、気持ちいーよー、風がこう、おれの体を通り抜けてって」

 

世の中で一番強い奴はばかな奴だ。俺は心からそう思う。秋山は無敵だ。こいつが小学生の頃から知っているけれど、どんないじめにも嫌がらせにもハテナマークで立ち向かう。腕を折られたときだって校舎の二階から落とされたときだって、流血しながらもあははと笑うこいつは、むしろこっちが痛くなるほどだった。

 

「しんちゃんっ」
「うっせーなバカ。話しかけんな」
「しんちゃーんっ」
「その口ガムテで塞いで鼻から牛乳ぶっこむぞ」
「あははー、おもしろーい!」

 

秋山は、小学生から中学生の今に至るまで、ずっと同じクラスの俺に懐いていた。
散々シカトしたのにも関わらず、懲りずにこうしてあとをついてくる秋山が大好きだ。いじめる振りしてこいつと話せる時間が大好きだ。俺が何を言っても笑ってくれる、その笑顔が好きで好きで愛おしい。

 

「てめえはそんなんで高校進学できんのかよ。勉強なんてオール1じゃねえのか?」
「こうこう……しんがくうー? なーにそれ」
「ぶっ殺されてえのか。どこの高校行くんだよ、中学の次。あともう少しで卒業だろが」
「あ、えーとねー中学のつぎはあ、ピアノ弾きに行くんだー」
「ピアノ?」
「そー。遠くにね、偉い人がいるから」

 

バカだから何かの勘違いや戯言だろうと、ずっと思っていた。
しかし、後日聞いたが、実はそれは本当で、秋山は天才的なピアノの才能を持っていた。今まで誰も知らなかったけれど、オーストリアだかオーストラリアだかわからないが、有名な学校でピアノ留学とやらをするのだという。
秋山ともう、会えなくなってしまう。

 

「秋山、お前、本当に行っちまうのかよ」
「んー何のはなしー?」

 

今日もまた、いじめられた名残のある汚れた学生服に、片方引きちぎられたカバンの持ち手を不恰好に抱えながら、傷だらけの笑顔を俺に向ける。そんな俺は叩く振りをして、汚れた学生服をはらってやる。

 

「お前、外国に行くんだろ。よかったな、いじめる奴らがいなくなって。これから俺とも会わなくて済んで」
「んー? よく、わかんない」
「外国に行けば、お前は今ここにいる皆とおさらばできてラッキーだなって話だボケ」
「今ここにいる……しんちゃんのこと?」
「もちろん俺とも」
「会えるよー? 毎日会えるよー」
「会えないんだよ、バカ。てめえはどこまでバカなんだ」
「会えるよ! しんかんせんってゆう速いでんしゃに乗って、すぐ会えるよ! おれ、知ってるんだー」
「会えねえよ、バカ……!」

 

俺が突き飛ばしたから、バカな秋山も能天気な笑いをやめた。
尻餅をついて不思議そうに俺を見つめている。

 

「ねえしんちゃん、どこか、痛いの?」

 

気付いた。
秋山が笑顔じゃなくなったのは、俺が泣きそうだったからだ。

 

 

秋山がいない街。
あいつの影を探しては味気ない毎日を過ごした。楽しいときでも、ふとした瞬間に秋山のことを考えてしまう。あのときあいつを突き飛ばして、涙が零れるところを見られたくなくて走って逃げて、それからは避けるように過ごした。

卒業式は終わり次第、別の友達とすぐカラオケに行った。秋山からさよならを聞きたくなかったからだ。でも俺は思う。あいつは、中学最後の日に誰と過ごしたんだろうって。俺は最後に何を言えば良かったんだろうって。

 

『ねえしんちゃん、どこか、痛いの?』

 

思い切り突き飛ばしたから痛いのはあいつなのに、何俺の心配なんかしてんだよ。俺だっていっぱい意地悪しただろ。なのに何で俺に懐いてくるんだよ。あいつはどこまでバカなんだ、こんな俺に一杯笑いかけてくれて。本当はお前に笑いかけられる資格なんてないんだよ。だって、好きだったらもっと体張って守ってやらなきゃいけないもんだろ? それをいつもお前は傷ついてても俺のとこにのこのこやってきて、何ともないような顔でまた俺によって傷つけられようとしている。
あいつに向けた言葉の刃が跳ね返って痛かった日もあった。だからお前を好きになることは罪みたいなもんかと思った。現に、俺は今でもあいつから逃れられずにいるんだ。

俺は想像の中で楽しそうにピアノを弾く秋山の姿を空に描いた。
いつか触ってみたかったほっそりとした白い指。それが今、遠くで鍵盤を撫でている。

 

 

『10月15日に、T中で待ってます 秋山みひろ』

 

三年後に国際郵便で突然こんなものが送られてきたからびびった。
T中というのは俺たちの母校で、一体どんな意図があってこんな手紙をよこしたのか検討もつかなかった。文面はこれだけだし、俺にはあいつに会いたいと思う反面恐れていたことがあった。月日が経ち秋山が成長して色々なことがわかりかけたとき、嫌われるのが怖かった。

俺やクラスメイトがしたことの全てをあいつはどう受け入れるのだろうか。憎まれるだろうか。殴られた痛みを思い返して復讐してやろうと思うのだろうか。少なくとももう笑いかけてくれることはないだろう、と。
それに、時間が記されていない。T中というのも校門前でいいのか? 行かないという選択肢はなかった。たとえイタズラでも嫌われててもいい。それでも一日中待つし、俺はずっと言いたかった。ごめん、と。それだけ。

俺はその日、大学を休んで学校が開く時間からそこで待つことに決めた。まさかこんな早くからあいつが来るわけがないことは分かっていたが、万が一の場合も含めて懐かしい母校へ足を運んだ。
昔の俺たちの年代の生徒がぞろぞろと登校してくる。こんなに幼かったんだな。

何も分かってなかったのは俺も一緒か。毎日同じ時間に来て、一日過ごして、同じ時間に下校する。それが、あいつが転校してきた小学校中学年から中学校卒業時まで全部一緒。何の疑いも無く一緒にいられること、それがこんなに貴重だったなんて今知った。

六年間も何やってたんだろう。あいつのいいところ全部知ってたはずなのに、何でもっと優しくしてやれなかったんだろう。無敵に見えても、きっと、淋しいときもあっただろうに。
終わりかけの金木犀の香りが切なさを誘う。中学生たちは「トイレの匂いしねえ?」とロマンをぶち壊しにする。そういえば秋山も金木犀の香りがすると「しんちゃん、この木、トイレの匂いがしていい匂いだよ」と教えてくれたっけ。

 

待てども待てども秋山は来ない。しかし帰る気はなかった。
下校時刻になったので、先生に許可をもらってまだ生徒がまばらに残っている校内をうろつくことにした。

 

『しんちゃん、一緒にかえろっ』

 

下校時刻にはチャイムが鳴ると真っ先に俺のところへ来た秋山。でも他の友人の手前、邪険に扱うことしかできなかった俺の弱さ。それでも、周りにわからないように秋山の後ろ姿に笑いかけてたことはみんな知らない。

 

 

来客用スリッパを履いて廊下を歩く。一年二組、二年四組、三年七組、それが俺たちのクラスだった。一年のときは、秋山と同じクラスなことにいらついた。あいつのことをバカだと軽蔑していたからだ。もしかしたら勉強をしたくないための演技なのかと思っていた。俺も勉強は嫌いだったからそんな卑怯なあいつがムカついていたんだ。

でもあいつは本当に勉強がわからなかったみたいだ。宿題も俺たちと同じものではなく、教師が秋山用に用意した分厚いプリントを毎日やっていた。あいつはあいつなりに努力していたところを見て、俺は初めてあいつへの誤解が解けた。

 

二年の教室へ向かう。階段が多い。三階にある日当たりの良い教室だ。

二年のときはいじめがひどくなった。学校に慣れ、体力を持て余し、刺激を欲していた男子生徒の格好の餌食となっていた。

秋山は、朝来るときは綺麗な学生服を着ていたのに、帰る頃には汚れていた。廊下の隅やトイレの中に連れ込まれては殴られたり蹴られたりしていたからだ。俺は始めは気付かなかったけど、体育のとき着替えているあいつの体のアザを見て気付いた。見えないところだけについていたアザは一体いくつあったのか、俺は未だに知らない。

 

秋山はまだ見つからない。三年の教室へ向かう。二階にある別棟にある教室だ。渡り廊下をたどり、新校舎へ向かう。

窓から外を眺めると、二階といえども高い場所だ。秋山はここから落とされて頭を強く打って入院した。事故だという他の生徒の証言を間に受けて、学校側もそう説明した。頭に包帯を巻いて退院してきたあいつは、変わらずにへらへらしていた。そしてしばらくたって腕を折られた。そのときも笑っていた。

俺はさすがにやりすぎなんじゃないかと、いじめの主犯格に警告した。しかし、その後俺に矛先が向きそうになり、皆の前であいつを蹴らなければいけないときがあった。始めに俺が蹴り、次に主犯格が殴った。その後は皆で殴って蹴った。止めたかったのに止めることができなかった。散々殴って皆が解散したあと、俺は呆然と校門前に腰掛けていた。震えが止まらない体を必死で抑えて拳を石に打ちつけた。あいつの痛みはこんなもんかと、何度も何度も甲から血が出るまで打ち付けた。でも秋山は言ってくれた。

 

『……しんちゃん、一緒にかえろ?』

 

嬉しかったのに、俺は首を振って、あいつの100メートル後を歩いた。

 

 

三年の教室にもいなかったのでしばらくそこで途方に暮れ、来てもらえなくても当たり前だ、俺はひどいことばかりしてきたんだと、呪文のように繰り返す。

グラウンドで野球部とサッカー部が練習している声が響き渡る。教室は時が止まったかのように静かだ。

この席に俺はいて、あの席に秋山がいた。

秋山は真っ白なノートを広げて何を思っていたのだろうか。
どこからかピアノの音が聞こえる。何の曲かわからないけどとても繊細で軽やかな音色だ。ほっそりとした指が踊っているような……。

第一音楽室ではブラスバンド部が練習をしているので、第二音楽室だろう。
こんがらがりそうな早い音の動きが足をもつれさせる。肩で息をしながら音楽室の引き戸を開けるとピアノの前に人影が見えた。

俺が「あきやま……」と呟くと、そこで手を止めてピアノの蓋を閉め、ゆっくりと振り向くと、立ち上がってお辞儀をする秋山がいた。

 

「久しぶり、しんちゃん。会いたかったです」

 

はきはきとしゃべるその様は、どんな難解な公式も解けてしまいそうなほど賢い人間のように思えた。

秋山は明朗で、上品で、美しく、少し長い前髪を左で分けて、白いシャツにワインレッドのネクタイを締め、ツイードのパンツを合わせていた。
ピアノの音色で満ちていた室内は沈黙で埋め尽くされる。俺は何も言えずに、ただ立ち尽くす。

 

「おれね、言ったでしょ。すぐ会えるって。だから会いに来ました」

 

冗談めかした声色にも笑えずに、成長した秋山を飽きるほど眺めた。そしてふと気付く。
そうだ、俺は謝らなきゃいけなかったんだ。「ごめん」、それをまず言わなければ秋山に呆れられてしまう、嫌われてしまう。

しかし、それを言う前に秋山が口を切った。

 

「ごめんなさい、しんちゃん。そして来てくれてありがとう。しんちゃんに嫌われててもいいから、もう一度会いたかった。毎日会えないってわかってから、最後の日、言いたかった。でも、会いたいって思ったら距離とか時間とか関係ないんです。おれにとっては昨日の今日だよ、しんちゃん」

 

秋山はピアノの椅子に腰掛けて笑った。あの頃は見せなかった淋しそうな笑顔だった。

 

「しんちゃんのことが好きでした。たとえしんちゃんがおれのこと嫌いでも。でも、それを認めてしまったらしんちゃんの側にいられなくなる。だから分からない振りしてた。だって、そんなの悲しいじゃんか。嫌いって思われてるのに側にいるのって、とってもとっても苦しいじゃんか」

 

崩れ落ちそうな笑顔を保って、言わなければと呼吸を大きくしているのがわかる。俺はそんな秋山を見れなくなって、自分の履いているスリッパのつま先に視線を移した。

 

「だからおれ、たくさん頑張って、しんちゃんに認めてもらえるようにいっぱいいっぱいピアノ練習して、頭が悪くても許してもらえるような存在になりたかった。それでしんちゃんの側にいさせてもらえるなら、指が痛くなっても構わなかったんだ。しんちゃんの笑顔、ひとりじめできたらいいなって、誰にも認めてもらえなくても、しんちゃんにだけは……」
「それ以上言ったら口の中にカエル詰め込んで接着剤でチャックするぞ!」

 

思わず叫んで、スリッパごと音楽室のじゅうたんに上がりこんで、秋山の前に仁王立ちした。

 

「お前にこれ以上なにを望むっていうんだよ! お前はそのままでいいんだよ! いてくれるだけで良かったのに。お前がバカでもアホでも関係ないよ。お前の存在だけで充分なんだから……なんでお前が謝るんだよ。俺に謝らせてくれよ」

 

俺は「ごめん、あのとき守ってやれなくてごめん、殴ってごめん、本当にごめん」と延々繰り返した。すると秋山が突然笑い出したので、俺は不思議そうに顔を覗き込む。「ごめん、しんちゃん、おれ……口にカエル詰め込むところ想像しちゃったら、はは、おかしくって……」と、秋山が腹を抱えて爆笑するので俺もおかしくなって笑った。

「ほんと面白いね、しんちゃんは……」と徐々に笑顔を消して泣きじゃくる秋山をそっと抱きしめて、「なぜ泣くの」という野暮なことはもう聞かない。
秋山もずっと苦しかったんだ。こんなに優しいやつが苦しみだけに鈍いはずはなかったのだから。それは成長した今でも変わらない。ずっと、これからも。

秋山の震える肩を抱きながら次の冗談を必死に考えている俺も、昔から全然成長していないな、と笑えてきた。

 

【終わり】

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