きみのためにできること・前編

短編小説




つらいとき、きみの姿を思い出してた。

本当に一人になって、寂しくて耐え切れなかったときは、きみがずっと見つめて話を聞いてくれていたこと思い出してたんだ。
だから、僕は今笑顔で、こうしてきみと――。

そう伝えたとき、ふいにきみが顔を伏せた。いつも眼を見て僕の話を聞いてくれるのに、そのときだけはうつむいて、少しのあいだ震えていた。
きみが元通りのきみになったとき、僕等は違う僕等になった。

 

 

夏の太陽は、憎いけど好きだ。
容赦なく僕の肌を焦がすけど、丸々と艶のある果物を見るたび、人間だけがこの日光に耐えきれないのだな、と思う。こんな日差しの下でも、犬も猫も果物も、水さえあればなんとか元気に生きていられる。でも人間だけが、この日差しに当たってしまうとガンになったり熱中症になったり焼けすぎて火傷したり、なんともろいことか。

そんなことを考えながらリンゴをより分けてゆく。
今日は、一つの枝に六つも七つも実ってしまったリンゴを三つにより分けていく作業をしていた。多すぎるとその重みで枝が折れてしまう。その前に栄養分が行き届かず育たないかもしれない。それに、十分なスペースがなく形の悪いリンゴができる。

だから小さくて不格好なリンゴからどんどん除外してゆく。ここでも、強くて綺麗なものだけが生き残るんだ。艶があって丸くてぷっくらしているリンゴ。それ以外はいらない。必要とされない。

この、今除外されたリンゴを手のひらに乗せてみる。

 

「かなた」

 

深いつばの帽子の下から僕を呼ぶ声がする。
近寄ってくる人影に先ほどのリンゴを投げると「いらなーい」と笑って弾き返した。

 

「もう昼飯?」
「そうだよ。あたしお腹ペコペコ」

 

本当は、青い空も白い雲も澄み切った空気も、僕等の味方であってほしい。この焼けるような太陽でさえも。

日本を離れて、ここ、オーストラリアのファームで働いている僕等。何でって聞かれてもよくわからない。多くの人は、セカンドビザが欲しいとかお金を稼ぎたいからとか理由はたくさんあるけれど、僕はセカンドビザも欲しくないしお金に困っているわけでもない。

陽子はもう五ヶ月もこのファームにいるという。何でって聞いても彼女もよくわからないみたいだった。
僕は二十三歳、彼女は二十五歳。二人ともそれなりに日本で生きてきた。それが何で今になってオーストラリアで農作業をしなければいけないのか、正確な理由はわからないし、もしくはありすぎて絞れないのかもしれない。

 

「今日、新しい人が入ってくるらしいよ」
「へえ。何人かな」
「どうせアジア系じゃない?」
「どうだろうね」

 

ここのファームは九十パーセントが韓国、台湾、タイ、マレーシアというアジア系の移民が働いている。中には現地人と結婚して、オーストラリアの永住権を持つ年配の人もいる。みんながみんな外で働いているわけではなくて、そういった年配の女性なんかは採れた果物を梱包する工場で働いている。室内作業になるので幾分給料は安くなるが、雨で働けなくなる外の仕事とは違って、雨の日でも常時安定した収入を得ることができる。陽子ももう少ししたらそっちに移ると言っていた。

 

それにしても、ここでは実にいろんな果物がとれる。
リンゴ、ネクタリン、梨、アプリコット、さくらんぼ、と食べるぶんには嬉しいものばかりだ。それが仕事になると夏の炎天下の下、何時間も熟した実をふらふらと捜し求めなければいけない。首に下げたかごの中に果物をいれるのだが、腰や肩は痛くなるし、枝で腕を切るわ日焼けはするわかなりの重労働である。

それでも僕は、日本でのことを忘れられた。僕の中にあるだろう闇と戦わずに済んだ。疲れ果てて帰る頃には、そんなことはすっかり頭から消え去ってしまうからだ。
だから僕はがむしゃらに働いた。疲れたら高い梯子の上から日本とは違う景色を眺めた。そしてきみが呼ぶ。もうご飯の時間だよと。

 

遠い汽笛のように、僕の中で静かに、しかし高らかに聞こえるきみの声。
それは心地よいメロディだった。

 

 

その日の夜、夕飯とシャワーを済ませいつものようにベッドの上で音楽を聴いていると、九時くらいに部屋の扉が開いた。

 

「はろー」

 

陽に焼けた肌に白い歯でにっこりと笑ったその男は、髪の毛は金に近い茶髪で、服装もそれに合わせてサーフブランドのポロシャツとハーフパンツ。コバルトブルーと白のコントラストがまぶしかった。

 

「えっと、まいねーむいず、ゆうへい・しみず。22さい。はーわーゆー?」

 

僕がその下手くそな英語に少し笑うと、そいつ、ゆうへい・しみずも妙に人懐っこく笑った。背は同じくらいなのだが僕よりも肩幅があり、がっしりとしている。しかし、笑うと女の子に見えなくもないあどけなさを残していた。

 

「ははは、おれは高遠かなた。日本人。よろしく」

 

僕がすかさず日本語で答えたので、案の定目を見開いて驚いた顔をしていた。アメリカ人なみに表情豊かな奴だ。

 

「日本人かよー。良かったあ、オレ英語できないからどーしよーかと……」
「分かんないことあったら遠慮なく聞いていいから。明日から仕事?」
「そう。朝五時半集合だろ? 起きれっかなー……あ、かなたの上空いてる? オレここにしよーと」

 

ここは六人部屋のシェアルームになっていて、今は僕と二人の台湾人が滞在している。台湾人は元気なので結構遅くまでキッチンで騒いだりしているが、僕は昼間の労働だけで精一杯だ。なので今の時間は僕とゆうへいの二人しかこの部屋にいない。六畳ほどの空間に二段ベッドが三つ置かれており、自由にくつろげるスペースはといえば自分のベッドの上だけ。それか、キッチンへ行けばいい。

だけど、僕はいつも人がたくさんいるキッチンが苦手だった。みんなフレンドリーだし良い人たちなのだけど、人の顔を見るだけで疲れが十倍増してのしかかる。

 

当然、男と女の部屋は分けられており、陽子は向かい側の女子ゾーンに滞在している。作りは一緒なのだろうが、僕は中を見たことがない。陽子が僕の部屋を訪ねてくることもない。僕等はキッチンか、見渡す限り畑しかないこの青い空の下、もしくは遅すぎる夕暮れに染まりながら透き通る空気の中でおしゃべりをした。

話す内容はいたってシンプルなことだった。何が好きか、嫌いか、そしてこれからのこと。時々日本での生活がどうだったか話すけど、そんなことに何の意味があるのだろう。陽子はいつも興味深そうに聞いてくれたけど、僕は少しも面白いとは思えなかった。

 

 

次の日、寝ぼけ眼のゆうへいと一緒にアプリコット畑に着いた。
幅二メートル、高さ一メートルくらいの大きな箱に、満タンまでアプリコットを入れるのが僕達の仕事だ。

 

「このひと箱で三千円。おれらは二人だから、九千円もらうためには六つ満タンにしなきゃいけない」

 

ゆうへいは、じとりとした視線をおれに向けた。

 

「それって、大変? 簡単?」
「大変。いいか、朝六時半から十六時までだから、時間配分が重要なんだ。なんせ、十三時を過ぎると急激に暑くなるからね。休憩時間は十時と十二時の二回。十時は十五分間、主にトイレ休憩。十二時から十三時まではお昼休みだ。おれ的には十時までに三箱、それから十二時までに二箱、十六時までに一箱いっておきたい」
「……わかった」
「じゃあ始めよう。あと、一つの樹から完全にアプリコットを採りつくすまで隣の樹に移っちゃだめだぞ。ひとつでも残ってるとスーパーバイザーに怒られるから」
「……」

 

ゆうへいは自分の背よりも三倍以上高いアプリコットの樹を見上げた。太陽へ向かって突き出た枝の先には、橙色に熟した果実がぎゅうぎゅうに実っている。

 

「すげえ高さ……」
「この梯子を上手く使えば楽勝だよ」
「梯子、重っ」
「さ、採るぞ」

 

それから僕たちはもくもくとアプリコットを採った。

疲れたら、ゆうへいがてんてこまいに奮闘している姿を見ながら、高い梯子のてっぺんでアプリコットを食べる。風が気持ちいい。ゆうへいは僕を見ている余裕はない。ひとつの樹の周りを何周もして、ようやく次の樹へ移る。重そうに梯子を持ち上げ、流れる汗をタオルで拭いて、帽子を深く被りなおして、おそるおそる梯子を上ってゆく。

僕等の目線が同じ高さになったとき、初めてゆうへいが僕に叫んだ。

 

「おいっ、なーに余裕ぶっこいてんの!」
「ははは、ゆうへいも食ってみろよ、美味いぞ。一番綺麗で美味そうなのを選んで、それは自分で食べる用にとっておくんだ」
「ふーん。どれがいいかなー。これにしよ」

 

ゆうへいは一番高いところに実っていたアプリコットを採ると、そのまま自分の口へ運んだ。

 

「んめー」
「ん」

 

甘くて酸っぱいアプリコット。
ふたりで美味しい果実をむさぼった。吹き抜ける風の心地よさも共有した。
梯子の上に立つと、どこまでもつづく畑と青い空があった。

自分が今、こうしていることが夢みたいで、時々胸がきゅうっとなる。
僕は今、何をしているんだろう、このままずっとここにいれるはずないのに、と。

 

 

「こんなん続けられるわけねーじゃねーかっ」

 

仕事が終わったと同時に、泥と汗まみれになりながらゆうへいが虚ろな目で叫んだ。まあ、初めの一日は僕だってそう思った。

 

「よく続けられるね、こんなん。こんなんするくらいならさ、日本でちょちょっと働いた方がまだましじゃん? だって一日中、この猛暑の中働いて日給六千円だぜ? 割に合わないって」
「もういいから、早くシャワー浴びてこいよ」
「ファッキン・アプリコット!」

 

そう言いながら自分で採ったアプリコットを食べて、また愚痴り始める。結局僕等は全部で四箱半しか採れなかった。実質、僕が三箱、ゆうへいが一箱半といったところだ。

やれやれ、それにしても騒がしい奴だ。なぜ人は自分の心の片隅だけにその思いを留めておくことができないのだろう。

 

「ああ、ゴールドコーストに帰りたい……メルボルンにくる前はゴールドコーストで語学学校行ってたよ。オレ、サーフィン好きだからさ、毎日ビーチ行ってさーすげえ楽しかったなー」
「それが、またなんでメルボルンに」
「友達がさ、メルボルンで仕事探すってんでオレも一緒に来たんだ。でも友達はエーペでさ、あ、エーペってゆうのは英語ペラペラの略ね。でさ、早く仕事が決まったんだけどオレは全然話せないしさ、そんでファームに来たの。ほら、ファームなら果物採るだけで英語使ったりしないじゃん? そしたらこの重労働、聞いてないって! オレ、もう日本に帰りたい」
「……」

 

そんなに簡単に帰れる場所があっていいよな。嫌なことがあれば誰かに同情してもらえるんだろう。少しくらい誇張してさ、大げさに話してみるんだろう。

 

「でも金ねーしなー。親に泣きつくのもみっともないしなー。あー、明日も五時起きだよー! もうシャワー浴びて寝るわ……オレ、こんな生活続けられる自信ない……かなたはどれくらいいるの?」
「二ヶ月」
「その前はどこにいたの?」
「日本」
「へー日本から来てすぐここで働いてんのかー。何してたのー?」
「……警備員」
「えー全然そんなん見えないよー?」
「おれ、疲れたからシャワー浴びてくるわ」

 

日本でのことは考えただけで疲れてくる。僕はそそくさと仕度をして部屋を出た。

正確に言うと、警備員ではなくホテルのドアマンだ。ヒルトンホテルとかリッツカールトンとか、僕等が一ヶ月働いてようやくもらえるような金が一泊、半日、あるいは食事代だけで消えてゆくところだ。金持ちなんて嫌いなのに、金持ちの生活とはどうなのか興味はあったのかもしれない。

 

でも、結局金持ちなんて金さえあれば世の中何でも手に入ると思っているような奴ばかりだ。厚化粧の年増に何度も口説かれたし、横文字ばかり並べ立てるどっかの外資系エリート男にすら、金を払うから部屋に来いと脅されたことがある。僕はデリヘルじゃない。有名大学を出ていたって、そんなこともわからない奴らばかりだった。

 

 

それから何日かたったけど、ゆうへいも慣れてきてからは泣き言が少なくなり、僕等は変わらず毎日アプリコットやリンゴを採る日々を続けていた。

今日はゆうへいがここに来てから初めて雨が降った。雨が降ると仕事ができない。オーストラリアの雨は日本と違って、スコールと言ってもいいくらいの激しい雨が降ったり止んだりする。

 

こんな雨の日はキッチンに集まって、おしゃべりをする。台湾人は中国語、香港人は香港語、ドイツ人はドイツ語で話していた。時々、英語で僕等に話しかけてくるけど、ゆうへいがわからないので卓球台へ移動する事にした。このファームで唯一の娯楽である卓球。陽子と僕は同じくらいの実力だ。

 

「卓球なんて高校の授業以来」
「おれも」
「あたしも」

 

僕等はそれぞれラケットを握り、卓球台の上に落ちていた枯葉を手ではらった。陽子が「かなたとゆうくん、やってみなよ」とすすめ、自分はイスに座りスプライトを飲み始めた。

 

「じゃあさ、勝った方が陽子と勝負な」
「わかった」
「ていっ」

 

勢いよくゆうへいがサーブをした。思ったよりずっと早い。僕はなんとか返したが、大きくフライになってそのままスマッシュを打ち込まれた。

 

「いえーい」
「くそ」

 

今度こそはと意気込んだが、何度やってもゆうへいのポイントになってしまう。僕は諦めて陽子にバトンタッチした。ゆうへいは、僕のときとは違って簡単な球を返している。

 

「ゆうへい、上手いな」
「そーかなー? へっへー」
「きゃあ、ゆうくん、こっち無理無理っ」

 

ゆうへいは上手く球をコントロールして、陽子が打ちやすいように返している。僕のときは全力なのに、少しむかついた。まあ、手を抜かれてもむかつくか。

余裕のある人間に対してイラついてしまうのは、僕の悪い癖だ。きっと僕に余裕がないからなのだろう。

 

そのうち、ゆうへいと陽子は何回続くかラリーを始めた。五、六、七……。
ラリーが続けば続くほど、お互い楽しげに話しているほど、僕は寂しくなった。
うすうすは気付いていたけど、このときはっきりと自覚した。僕は陽子のことが好きなんだ。

 

 

「ゆうへい、大丈夫か」
「うーん……」

 

ゆうへいが熱を出した。

この気温差の激しいメルボルンの気候に慣れるまでは時間が要る。この日は昨夜から冷たい雨が降って、夏なのに白い息が出るくらいだった。

当然、温暖なゴールドコーストからやってきたゆうへいは、長袖を一枚も持ってきてはいなかった。それを僕に言えば貸してあげたものの、彼は寒いのを我慢していたのだ。気付かなかった僕は悔やんだ。

 

「ゆうへい、メシ食えるか?」
「無理。吐きそう……」
「何なら食べれそう?」
「んー……今何にも食いたくない……」

 

ゆうへいはこんな感じで、朝からろくにご飯を食べていなかった。食べても吐いてしまうのだ。

 

「陽子がお粥作ってくれたから、食えそうだったら言って。持ってくるから」
「さんきゅ」

 

弱弱しいゆうへいの様子を見て、同室の台湾人も心配していた。ゆうへいはそういうときいつも笑顔を見せるのだが、それもできないほど弱っていて、顔色は青白く、唇はかさかさだ。たまにベッドを降りる足取りすら確かではない。

 

「ゆうへい、おれのベッド使えよ。おれが上で寝るからさ」
「そこまでヤワじゃねーから平気だよ」

 

そこで、部屋のノックがした。同室の台湾人が開けると、陽子がタッパーとビニール袋を提げて立っていた。

 

「ゆうくん、大丈夫? これお粥と、薬と、あと魔法瓶にお湯入れてきたからこの生姜溶かして飲んで……あと、ブランケットも持ってきた」
「ありがとう」
「早く治ればいいね。じゃあ、また」

 

陽子は、同室の台湾人に気兼ねしたのか、中に入らずに僕に手渡した。

 

「ゆうへい、聞こえた? 陽子が色々持ってきてくれたぞ。生姜湯、飲む?」
「……のむ」

 

僕は持ってきてくれたお湯と生姜の粉末を使って、生姜湯を作った。生姜の粉末が入っていた袋の中にはタッパーに入ったリンゴと梨、カロリーメイト、あと手紙が入っていた。

僕はそれを見て見ぬ振りをして、袋ごとゆうへいに手渡した。

 

「こん中に混ぜたから飲んで」
「ありがとう。生姜湯なんて飲んだことねーや……美味いの?」
「おれも飲んだことない。まあ、陽子が持ってきたんなら風邪に効くんだろ。ナースだし」
「陽子はナースなのか……」
「じゃあ、おれ今から仕事行ってくるから。補強用の柵を作らなきゃいけないんだ。陽子は休みだから何かあったら来てもらえばいいよ」
「わかった……ありがとな」

 

ゆうへいは安心したように目をつぶった。それは熱が出てから初めて笑った瞬間に見えた。

 

 

僕が仕事から戻ると、陽子が部屋で看病をしていた。

そのおかげで、ゆうへいが徐々に元気を取り戻しつつあるので栄養のあるものをと思い、肉じゃがを作ってあげた。じいちゃんと暮らしていたので煮物系は得意だ。ゆうへいも陽子も予想以上に驚いていた。いつもは陽子に少し手伝ってもらうのだが、今日はゆうへいの看病で忙しそうだったので自分だけで作ってみたのだ。われながら美味しそうにできた。

 

「うっめー!」
「かなた、美味しいよ!」
「そうかな、この醤油日本のじゃないから自信なかったけど、美味いならよかった」

 

陽子の顔はほころび、ゆうへいは嬉しいくらいに「うめーうめー」と次々につまんでくれた。朝の青白い顔から一変、血行も良くなりお腹も空いていたようだ。

 

「な、かなた、お前一人暮らし?」
「え、あ、一応」
「日本戻ったらさ、一緒に住まない? オーストラリアだとシェアとか普通じゃん、そんなノリでさ。お前の作るメシ、めちゃくちゃおいしーよ」
「ええ?」
「じゃあ、もし気が向いたらオレのとこに来ればいい。オレ、たぶん結婚とかしないと思うからさ、お前がご飯を作ってくれ。オレ、料理できねーんだわ。な、頼むよ!」
「ゆうくんてば調子いいんだからーどうせ彼女いるんでしょ?」
「え、いないよ。いたけど、別れてきた。遠距離できるほど器用じゃねーしさー。だからこっちで作ってもいーかも。金髪美女とかー」
「あ、ほんとはそれが目的でしょおー」

 

陽子とゆうへいが冗談言い合っている間、僕は日本に戻ったときのことを考えてしまった。今まで思い出さないように努めていたけど、いつか必ず帰らなくてはいけないのは日本なんだ。

じいちゃんの介護をしながら、不本意な仕事をして、家賃払って、ご飯を作って、その繰り返し。

 

雨は僕の心の中でもずっと降り続いていたのだ。

 

 

夜が明けてもまだ雨は続いていたが、ゆうへいの体調は良くなったので、この機会に街へ出てみようということになった。ゆうへいが汚れてもいい洋服や、長靴など、足りないものを買いに行きたいと言ったからだ。陽子も買い物がしたいといつも言っていた。

タクシーを三人でシェアすれば、一人六ドルほどで街に行ける。最も、最寄の街なのでメルボルンの中心街ほど栄えてはいないが、必要なものはたいていそろえられる。

 

「ゆうへい、何欲しいの」
「作業ズボンと安いTシャツと寝袋、あとは長靴と軍手とマスクとか」

 

それらは全部ファームにかかせないものだった。雨の次の日の畑はぐちゃぐちゃにぬかるむし、手の保護に軍手はかかせない。マスクは、尋常じゃない数の蚊と蠅から顔を守るためだ。どれもこれもシティにいるなら必要ないものばかりだから、ゆうへいはひとつも持ってきていなかった。

 

「ゆうへい、ほんと何も考えずに来たのね」
「うんっ、オレの人生いつも行き当たりばったりっ」

 

Kマートという、大きなショッピングセンターに入り、それらを探す。ここは食品以外ならだいたいそろっていて、おまけに安い。ゆうへいは五ドルの長袖Tシャツ二枚と、九ドルの作業用パンツ一枚、十五ドルの長靴、三十ドルの寝袋、五ドルの軍手、あとはマスク代わりのバンダナを購入した。

 

荷物で両手一杯のゆうへいに、陽子は傘をさしてあげていた。隣から陽子の笑い声が聞こえるたびに、ああ、陽子はこういう風に笑うんだったっけ、と不思議に思った。僕の前ではこんなに大きく高い声で笑ったことはないように思う。それは僕のせいでもあったのかもしれない。僕自身、心から笑ったことはなかったのだ。

 

「な、かなたー、重いから持ってよ」
「やだよ。お前のもんだろ」
「かなたひっどーい、あはは。ね、行き当たりばったりでもさ、なんでゆうへいはオーストラリアに来たの?」
「えー? わっかんねー」

 

ゆうへいはへらへらと笑い、斜め上を向きながら「でもねー」と切り出した。

 

「いっつもさー親がいつまでフラフラしてんだ、とか、結婚はいつするんだ、とかうるさくてさー。昔っからそーなの、うちの親。世間体を気にするっつーかさ。だから、何かしら口実見つけて逃げたかったのかもしれない。英語勉強するんだ、とか、海外で仕事するんだ、とかさ」

 

その言葉に陽子は「わかるわかるー」と笑ったが、僕は腹立たしくて仕方なかった。なんだ、それ。なんだ、その小学生みたいな理由。今まで仕事面でも生活面でも助けてきたつもりだったが、一気に突き放したい気分だった。

 

「じゃあ、わざわざこんな遠くまで来といてきついファーム仕事なんてしなくてもいいじゃん。別に日本のどこかでもいいんじゃないの? 金もったいないだけだよ」

 

刃のような声色で言ったのだが、能天気なゆうへいはそんな心中は察していないようだった。陽子が僕に驚いた顔を向けただけだ。

 

「そーなのかもー。親がいなけりゃどこでもいいのかもー」
「あのな、父さんがあーだ母さんがこーだって、親にむかついてられるだけでいいんだよ? そんな父さんでも金稼いできてくれるんだろ、母さんはメシ作ってくれんだろ? ふざけんなよ」

 

さすがにここまで言えば、にぶいこいつも気付いたようだ。眉間にしわが寄っている。

 

「? なに、その言い方……」
「かなた、どうしたの?」
「お前はな、裕福なんだよ。こんなとこ来なくてもちゃんと生きていけるくらい裕福なんだよ。親に感謝しなきゃだめなんだよ。いい年こいて、いい加減気付け。お前、そこまで頭悪いの?」
「はあっ?」

 

悠々と、ぬくぬくと生きているゆうへいが憎たらしくてたまらない。憎らしくて、羨ましかった。その笑顔を歪ませてやりたかった。

ゆうへいは始め、激昂した瞳を向けていたが、徐々に哀しい色に変わり僕から視線を外した。

強くなる雨の中、僕等はタクシーを拾った。タクシーの車内では、誰も一言も話す人はいなかった。

 

 

夕食後、タバコを吸っていると、ゆうへいも隣りに腰掛けてタバコを吸った。まるで、昼間のことなんて覚えていないかのように自然に座ってきたが、その瞳は僕を見ていなかった。正確に言うと、僕と目を合わせようとしていなかった。

罪悪感を感じても、僕にはタバコを吸い終わったあとも隣りに留まることしかできなかった。
ゆうへいがもう一本タバコに火をつけたあと、ぼそっとした声で語り出した。

 

「オレは確かに、父さんも母さんも、兄ちゃんも妹もいる。貧乏だったわけでもない。でも、オレにだって、ここに来た理由はある。こんなオレでも、ただ遊びにきたわけじゃない……」

 

ゆうへいはぽりぽりと蚊に刺されたところを掻きながら、気まずそうにしていた。
僕は「昼のことは、ほんとごめん」とつぶやいて、タバコを取り出し口にくわえたところで、ゆうへいが自分のライターで火をつけてくれた。大きく煙を吐き出して、薄暗闇でぽう、と光る火をみつめながら話を続ける。

 

「昼のことは、ただの八つ当たりなんだ……おれね、家族、じいちゃんしかいないんだ。しかも今寝込んでるの」
「うん……」
「心配だから一緒にいたかったし、優しいじいちゃんと暮らしていたかった。でもさ、暮らせば暮らすほど切なくなるんだよ。あと少ししか一緒にいれないとか、じいちゃん死んだらどうしようとか、そんな不安ばっか浮かんでくるんだよ。毎日毎日……特に、仕事で疲れて帰ってきたあと、じいちゃんが寝息をたててるのを聞いたときとか」

 

そこで僕はトンと灰を落とした。長くなった灰が一気に地面に落下した。それでも僕は吸わずに話を続けた。

 

「だから、こっち来てからはなるべく思い出さないようにしてた。そしたらさ、じいちゃんが体壊したって連絡がきたの。それまでずっと無理してたのかもしれないし、おれのサポートがなくなったからか、それは分からない。それでも、じいちゃんが倒れたことを忙しさで忘れようとした。ここじゃ情報も何も入ってこないから……本当は、じいちゃんが死んだらどうしようって怖さはある。だって、そしたらおれ本当に家族がいなくなっちゃうんだよ? 血のつながりってさ、結構重要なんだよ。おれが死にそうなとき、誰が心配してくれるんだろうって……ああ、でもこんな自分のことばっか考えて、じいちゃん苦しんでるかもしんないのに何やってんだろ……」

 

ゆうへいがじっとその黒い瞳を向けているのがわかった。僕はそれに視線を合わせないまま、ずっとタバコを見て呟いてた。自分自身に語りかけるように、ゆうへいに話しているなんて思わないように。そうしないと、本音を話せない気がした。

 

僕たちのタバコは、吸わないまま灰になって燻っていた

 

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